本場奄美大島紬技術専門学院 開校式 パネルディスカッション 「未来への一歩」
司会:始めにパネラーをご紹介します。(有)前田紬工芸 専務取締役で本場奄美大島紬における最年少伝統工芸士の前田圭祐様、入校生を代表して川崎安通子様、高野菜南子様、学院講師の栄夏代様、本場奄美大島紬織工歴62年、今も現役で織られています山下ミキ子様、そしてコーディネーターとしまして(一財)きものの森理事長ならびに(株)やまと代表取締役会長 矢嶋孝敏様の6名です。では宜しくお願いいたします。
矢嶋:今ご紹介にありました通り前田さんは最年少の伝統工芸士で、現在31歳です。それから織工歴62年の山下さんはご子息が奄美つくりべの会 会長の山下竜己さん、お孫さんが今回の入校生と、本日は親子三代でお見えいただいています。そして入校生の方が2名、講師の栄先生がいらっしゃるわけですが、パネラーの皆さんには簡単に自己紹介していただき、これからの大島紬について、この学院でどういうことをやりたいかの抱負等を聞きたいと思います。
前田:まず始めに、ご入校おめでとうございます。先程ご紹介いただきました(有)前田紬工芸の前田圭祐と申します。私は高校を卒業後、以前こちらにありました大島紬技術指導センターで半年間、締機という大島紬の工程の一つを勉強させていただきました。締機を習いながら家業である機屋業をして、今年で13年目になります。
川崎:私は富山県出身で、奄美に来る前は30年ほど事務職に就いていたのですが、50歳を迎えて心機一転 自分の人生を変えてみようかなと思い、今回の募集に応募して去年9月に奄美へやって来ました。昔からいろいろな機会があって大島紬を何回か見たことがあったのですが、大島紬の持つ細かさや綺麗さに惹かれました。また職人にも憧れていましたので、思い切った次第です。
矢嶋:職人への憧れということで、以前から何か手に職を付けたいとか、「モノをつくりたい」というお気持ちはありましたか。
川崎:何かを作ってみたいという気持ちは昔からありましたが、踏ん切りが付きませんでした。ですが50歳になったので、思い切って飛び出したという感じです。
高野:高野菜南子と申します。長野県出身の22歳で、入校と同時に今年の4月から奄美に住んでいます。ここに来る前は高等専門学校に通っていたのですが途中で体調を崩してしまい、身体の回復を待ちながら次に何をするか考えていた時に大島紬を知り、大島紬を織ってみたいと思い応募しました。
矢嶋:高専と聞くと、ロボット技術大会や建築学といったイメージがあるのですが、実際に高専ではどんなことを勉強されていましたか。
高野:4年生まで電気電子工学科で学んでいたのですが、電気回路や電磁気学等のモノづくりは基礎知識が無いとつくれないので、基礎知識の勉強がほとんどでした。そのためロボットの制作はあまり経験しなかったのですが、物事を組み立てるためのアルゴリズム等は学習してきました。
矢嶋:私は奄美にかれこれ80回以上訪れていますが、最初に驚いたのは大島紬の織工の親方さんです。理系脳とでも言いますか、非常に細かい図案から締機、経緯糸の整理がキチッとできる方々ばかりでした。高専で学んだことが、きっと広い意味で役に立つと思います。
栄:私は機織りを始めて58年になります。時々 親戚の子に教えたりもして、今日まで機織りの楽しさをずっと味わってきました。縁あって今年からこの学院で皆さんに指導させていただくことになり、とても嬉しく思っております。皆さんにこの大島紬の技術を学んでほしいと強く思いますし、機織をやりたいとここに足を運んで、人によっては遠くからいらした方々の熱意に、私の方が燃えてくるくらいです。皆さんにはこれから技術をどんどん叩き込んで覚えていってもらいます。
山下:私も機織りを始めてからもう62年になります。その半世紀以上の間にはいろいろなことがありましたが、「もう自分にはこれしか無いんだねー」と思い始めてから楽しくなりました。今も喜んで毎日織っています。また今回は孫の明希が大島紬を習いたいと入校したのですが、最初はちょっと「あらー」と考えましたが若いうちに技術を身につけるのはいいことじゃないと思い、応援しています。
矢嶋:こうして一番若い31歳から織工歴58年、62年の方までいらっしゃるように、大島紬は現役で長く織れるということを、今 皆さんは目の当りにしています。それを特に感じてほしかった。 それから川崎さんが「今まで事務の仕事を30年やってきたけど、何かモノをつくるという仕事に携わってみたかった」と仰いましたが、多かれ少なかれ入校生の皆さんはそういった気持ちを持っていると思います。「ものをつくりし者は 神に選ばれし者なり」というミケランジェロの言葉がありますが、誰もがモノをつくれるわけではありません。それはエリートという意味ではありませんが、選ばれたという自覚を持つべき大切な仕事だということです。例えば私は普段このボールペンを使っていますが、壊れてしまったらボールペン1つ自分で直すことはできません。モノをつくるとは、それをつくったり直したりできるということです。それ故に大変な面もありますが、とても素晴らしい仕事と思います。 次に、前田さんはこの学院で直接指導等はされませんが、締機を修得された時の経験も踏まえ、入校生の方々に何かアドバイスがあればお願いします。
前田:これは今までに無かったことなのですが、今回は10名の入校生に対して専属の先生が2名います。自分は指導センターを卒業した後も、締機を引退されたばかりの方の所に出向いて教えてもらったりしていました。教えてもらえる人がいるうちに学ぶのが一番大事だと思っていて、5名に対し1名の先生という恵まれた環境ですから、わからない時は積極的に聞いてください。わからないまま黙ってやってしまうと、間違えた技術を修得してしまうこともありますから。
矢嶋:鹿児島の養成所もそうなのですが、講師2名は今回の特長です。以前組合の5階にあった専門学院では、1名の先生に30年近くご指導いただいておりました。この度新しく栄先生、泉先生の2名にお願いしたのですが、2名体制というのは実は非常に珍しい。2名にした理由は、「必ず誰かがいる」を保証したかったからです。先生もご都合が悪く休まれることもあれば、体調を壊されることもあるかもしれない。ですが2名体制にすることで、必ず最低1人、通常であれば2名いらっしゃることになります。 これから皆さんが織っていく中で、例えば経糸が切れてしまったり、間違って絣が合わないまま織っていることに途中で気づいたり、それをどこまで解いたらいいのか、このまま織っていていいのか、といった困難にぶつかります。その時、織り経験が50年、60年の先生がそばにいてすぐに指導してもらえるわけです。10名の入校生に対して2名の先生というのはある意味贅沢ですが、皆さんの技術力向上のためにもこういった体制にいたしました。 そこで皆さんにお願いしたいのは、1日でも早い、かつ正確な技術の習得です。講師1名体制に比べれば2名体制の方が当然教え方に漏れが無く、先生もいつもいるわけですから。今までだったら3年かかるところを2年で、2年かかったところを1年で習得できる環境を整えたいと考えています。それはこの学校のためではななく皆さんのためです。皆さんが早く7マルキの大島紬を織れるようになり組合の検査も合格できれば、織った反物がそのまま経済的収入に変わり、皆さんの生活支援となります。そこに3年も4年もかけていたら、皆さんにとって収入はありません。早く経済を回すためにも、講師2名体制を敷いたのです。 では川崎さん、今は織工として、どういう気持ちでやってみたいと思いますか。
川崎:大島紬の一番の特徴である緻密さを習得するのが目標です。私が富山にいた時は南国というと大らかな方々がいるイメージで、そういう所に惹かれてこちらに来たのもありますが、その大らかさや奄美の気候、台風に耐える島の方たちの人柄等が合わさって、1300年の歴史を持つ大島紬という伝統産業ができているのだと思っています。今の世の中は何事もスピードが求められますが、私はまだそんなに速く織れないので、スピードを克服しながら緻密さを習得していきたいと思っています。
矢嶋:今 歴史の話がでましたが、皆さんには大島紬が何故奄美にしか生まれなかったのかをきちんと理解してほしい。奄美の大島紬の特徴はやはり泥染めで、泥染めができるのは地球上で奄美と久米島の二つの島のみです。
ここには約50万年前の石油と同じ時代に堆積した土の層があり、そこに山から流れ落ちる森の生命を育んだ水が流れ込んでできたのが泥田です。奄美も久米島も同じような立地に泥田がありますが、そこでしか泥染めはできません。亜熱帯海洋性気候に近いからこそ生命力が特に強いシャリンバイが育ち、シャリンバイと泥によって泥染めの色が出ます。実は東京の世田谷区にもシャリンバイが植えられていますが、おそらく世田谷のシャリンバイを何千本使っても染まらないだろうなと思うくらい、奄美や久米島のに比べたらとてもひ弱です。この奄美の自然で育った、人間の手や足の太さくらいあるような生命力溢れたシャリンバイと、50万年前からの地層によって育まれた泥だけが、大島紬の泥染めを可能にします。
栄:私は4月からのスタートで、今も柄物を織り始めたばかりなのであまり詳しいことはわかりませんが、織りの技術は50年、60年やられている方も試行錯誤しながらどうにか製品に仕上げられていて、ゴールが無いものだと思います。いくつになっても、技術の向上を一番大事にしてこれから織っていきたいと思います。
矢嶋:試行錯誤はとても重要です。手織りの絣を合わせて大島紬を織るということは、失敗や言い訳がきくということです。機械でつくっていると、機械が故障したらその織物は捨てなければなりませんが、手織りの場合やり直しがききます。それは文化だからです。文明は失敗したら、例えば飛行機は墜落してしまいますし、自動車がは事故を起こしますよね。ですが人間は失敗してもやり直しがきく。私たちは今まで病気や怪我をしても、自分や周りの力で身体を治して生きてきています。大島紬においても、最初は上手くいかなくてもだんだん直していくことができる。1年経ってわからなかったことが3年目にわかる、3年経ってわからなかったことが5年目にわかるというのは、人間と同じですよね。テレビゲームみたく、一晩徹夜したら何とかできてしまうものではありません。まずは丁寧に技術を身につけることで、それ以降は直しながらつくることができます。技術習得を最優先にしたうえで、後は自分の目標を持ってしっかりしたモノつくりをしてほしい。決してスピードに囚われすぎず、自分の中でどれくらいの期間で織りあげる、という明確な目標を持ってください。 では次に栄先生、今後どのように指導していかれますか。
栄:まずは経と緯の糸を確実に合わせていくこと、それに慣れてきたらスピードを考えて先に進むといったように、手慣れたら少しずつ早くしていきましょうと話しています。今は皆さんの上手な所を伸ばして、私も手を動かしながら教えているのですが、機織りはまず忍耐力と勘がないとできません。皆さんはこれを覚えたら一生ものの技術を身につけられるので、頑張って色々な柄に挑戦していきましょうね、と励ましながら日々指導しています。
矢嶋:今日も白大島、龍郷柄、地空き等を着ている方がいらっしゃるように、大島紬には様々な柄と技術があります。いくらでも奥が深くて巾が広い。簡単に言えば料理の世界と同じです。料理は誰でもできますが、料理を素早く、かつ素材の美味しさを引き出せる人はそういません。大島紬も織ろうと思ったら誰でもできるかもしれませんが、美しく綺麗に織れるかどうかは別です。
例えばカップヌードルは誰がつくっても、熱湯を入れて3分間経てば同じ味ができあがります。しかし味噌汁は中に入れる具材や煮込み時間、温度、味噌のさじ加減によって味が変わる。その人にしかつくれない味です。仮に味噌汁のつくり方のレシピを見ても、必ずしも美味しい味噌汁ができるとは限らないですよね。自分で「こうだな!」と、数字で表現できないことも感じて身体でわかっていくことが大事です。とても面倒かもしれませんが、人間はそうやって生きているわけですから。ちょっと今日は疲れたなとか、ちょっと熱っぽいなとか、身体の変化を感覚で察知するように、いろんなことを感じ取る力が大島紬を美しく織っていくのに必要なのだと思います。 最後に山下さん、今までのお話を聞いたうえで、入校生の皆さんにアドバイスがあればお聞かせください。
山下:栄先生が仰ったように、分業は忍耐と勘が必要です。毎日の天候にも左右されるのですが、織っているうちにそのことがわかってきます。私の場合は20代は見習い期間で、30~40代は子育てをしながら、40~50代は生活のために機を織ってきました。それでも60代後半から70代にかけては心にゆとりができたのか、数少なくなった職人さんの想いを慮りながら織っています。長い見習いの時に言われた「紬を織る時には着る人の身になって織りなさいよ」という言葉がずっと身体に沁みついていて、その気持ちを常に持って機に向かっています。健康でさえあれば80代でも織れると思いますので、皆さんも誇りを持って織りの勉強をなさってください。
矢嶋:大島紬の糸は絹糸として精練されたもののため素材は安定していますが、例えば沖縄でつくられる芭蕉布の糸は非常に切れやすいため、人間国宝の平良敏子先生は芭蕉布を織るために毎朝加湿器を入れます。平良さんの工房に行くと時計ではなく湿度計があって、その湿度計は常に80~85%を指している。サウナに入っているようなものです。加湿をした中で織らないと、せっかく績んだ芭蕉布の糸が切れてしまいますから。宮古上布や八重山上布の糸も75%以上の加湿をした状態でないと切れやすく、そこまでではないですが大島紬も湿度が低いと切れやすい。そういったことまで考えて織っていかなければなりません。
織物が何故この奄美や沖縄という南の国で、そして小千谷や塩沢という全く対極的な雪国で育ったか、その答えは両方とも湿度です。奄美は暑さに加え雨が降るので蒸しますし、逆に塩沢や小千谷は1年の半分くらいが雪に覆われていることで湿度が保たれる。皆さんが暑いな、寒いなと感じる環境が織物には適しているのです。
また、その日の天候によって経糸にかけるテンションをどうするか、どれくらい重りをかけるかは違います。例えばお風呂の温度を同じ42℃に設定しても、夏は熱く感じるし、冬は寒く感じますよね。織物もそれくらい気候に左右されるわけで、天候や湿度、気圧の変化を感じられるようになることが、山下さんも仰った「感じ取ること」の大切さだと思います。 それでは他の入校生の方々にも一言頂きたいと思います。
幸 :幸(ミユキ)と申します。今私が着ているきものは、叔母が織って仕立てたものを昨年私が仕立て直したものです。母も三度の食事より機織りが好きで、80歳過ぎまで楽しんで織っていました。そんな環境で育ったので私もいつかは機織りをやりたいと思っていたのですが、日常に追われなかなかチャンスがありませんでした。けれど今回この学院に入ったことで、どれだけできるか不安だらけですが織れるようになりたいと思っていますので、ご指導のほど宜しくお願いいたします。
碩 :碩(セキ)と申します。私は20代の頃、本当に見習い感覚で少しだけ織りをやったのですが、結局他の職に就いたため、定年するまでは紬には全く縁がありませんでした。退職して5~6年経った今、機織りから50年近く離れていましたが、昔習ったのを思い出しながら学びたいと思います。
矢嶋:昨日は鹿児島の養成所の開校式だったのですが、そちらでも20代の頃にやっていてもう40年くらいやっていない、という方が2人参加されていました。その方たちと交流できる機会があればいいなと思います。
川島:龍郷町に住んでいます川島と申します。奄美大島に来て6年になりますが、最初の4年は金井工芸で泥染め、草木染めをやっていまして、今は自宅で染めやグラフィックデザインの仕事をやりながら暮らしています。泥染め以外の工程を全く知らないので、今回頂いたチャンスでモノづくり全体を見渡せたらなと考えています。いろいろなことを吸収したいですし、図案等にもとても興味があります。ここには古い資料もあるのでたくさん勉強したいです。
関澤:関澤と申します。1年ほど前に東京から引っ越してきて、はじめは奄美の染織工房で働いていましたが、大島紬に興味があったので数ヵ月前から前田理事長のお世話になり、今回の機会を頂いてここにいます。元々は服のデザインを勉強していたのですが、いつも新しい形をつくり続ける、追われるようなモノづくりでした。しかし日本でモノづくりをする時に、布そのものの持つ力が一番強いのではないかと思ったのです。今ここに奇跡的に残っているモノを使って、新しいモノづくりをしていかないと良いモノをつくれない、という想いがあったので奄美に来ました。
矢嶋:私も38歳まではアパレル会社を創業して社長をやっていたのでよくわかるのですが、きもの、つまり反物はテキスタイルなのです。洋服と違ってフォルム、スタイルが無い。洋服はテキスタイルが非常に良くともデザインによっては意味が無くなってしまいますが、きものの場合スタイルは着る人がつくるので、どうやってそのテキスタイルを完成させるかに純粋に打ち込めます。洋服はデザイナーがテキスタイルからツーピースやワンピース、スカート、パンツにしたり、鋏を入れてタイトに、もしくはフレアに、と変えていきます。しかし大島紬は織りあげた反物が完成品で、あとは着ている人が反物をきものに変えるだけです。織物の織工は一人で完成品をつくれる、という点でアパレルとは異なります。
山下:山下明希です。先ほど紹介がありましたが、祖母が機織りを、父も紬の仕事をしているので、幼い頃から機織りを見て育ちました。高校を卒業して就職したのですが1年で辞めてしまい道に迷った時に、父から機織りの学校があるけど行ってみるかと言われ、興味があったので入校しました。いざ織ってみるととても難しく、祖母の凄さを改めて実感しました。私は来年成人を迎えるのですが、祖母が私の紬を織ってくれるそうで今から楽しみにしています。私の目標は、弟の成人式までに彼の紬を自分で織れるようになることです。
矢嶋:ありがとうございました。今回の入校生は10代が1名、20代が2名、30代が2名、40代が1名、50代が1名、60代が3名の計10名と、非常にバランス良く全年代が揃っているので驚きました。
それに関連して、どの年代の方が大島紬を買っているかについてお話ししたいと思います。
矢嶋:弊社で大島紬をご購入いただいた方の年代別構成を見てみると、20代が19%、30代が12%と、皆さん驚くかもしれませんが、20~30代が31%を占めます。もっと上の年代の方々が多いと普通思いますよね。60代以上も31%、40~50代は38%です。しかし、これを人口統計と比べると、60代以上が圧倒的に多く37%なのに対し20~30代は20%しかいません。20~30代の人口構成比は60代以上より少ないにも関わらず、大島紬ご購入者の比率が60代以上と同じということは、大島紬に最も関心を持っているのは実は20~30代の方々だとわかります。シニアシフトしていた大島紬がヤングシフトへ大きく転換しているのです。 入校生の皆様から一言頂いたところで、泉先生からもご感想を頂けますでしょうか。
泉 :私は19歳頃から機織りを始めて50年くらいやっています。先月末に栄先生から講師着任のお話があり、その時私は別の仕事をしていたのですが、私の大好きな仕事だと思い快く引き受けました。講師として感じたことは、入校生の熱心さですね。本当に感動しました。私が習い始めた時は、気が遠くなるような気持ちで母親から習っていたので。小学校の頃から母親に織らせて~とせがむくらい私は機織りが本当に大好きで、この歳になってこんなに素晴らしい仕事に就かせてもらい感謝しています。手と足がある限り、90歳になっても機織りをしたいです。
矢嶋:ありがとうございます。3人の大ベテランの方々が今のご年齢までの熱い想いを述べてくださいましたが、どうして大島紬がこんなに強く織り手の心を捉えるのかを、これからいろんな壁にぶつかる度に思い出してください。それは彼女たちがいろんな壁を乗り越えてきたからです。苦労と満足、言い方を変えれば面倒と面白いは紙一重です。面倒は面=顔を倒すと書きますが、嫌だなあと思って顔が下を向き顔が暗くなることを指します。嫌だな、織りが上手くできないな、何でこんなこと言われるのだろうな、と下を向いてがっかりしている様です。逆に面白いとは、いいなあと思って上を見ると顔に太陽や日光が当たって白く見える状態で、こんなに綺麗にできる、こんなことがわかるようになった、こうやれば織れる、と思えば自然と顔が向きますよね。「面倒」と「面白い」は気持ち次第で、これから悩むことがあったら、面倒だなという気持ちをどうやって面白いに変えられるかを考えるんです。そして、60年近く織っている方が何故今も大島紬にこれ程の情熱を持っているか、を忘れずに頑張ってください。ありがとうございました。