琉球びんがた 三代継承の想い – 城間びんがた工房16代 城間栄市氏 –
三代継承展の意味
「三代継承展」という形で展示をさせていただいていますが、その意味を説明したいと思います。
紅型宗家の城間家は300年の歴史があり、私で16代目ですが、14代、15代、16代という三代の作品展示の中で、城間家 紅型の歴史を見ていただきながら、現在の城間家の在り方を見て欲しい、という想いを込めて「三代継承展」としました。
三代それぞれのキーワードは、祖父の14代栄喜が「戦後復興」、15代の父 栄順が「きものの世界への挑戦」です。戦後復興から着物の世界に挑戦し、16代の私は、まだ手探り中ですが、あえて言葉にするなら「紅型の再定義」です。
戦争で全て壊滅した紅型を何とかして復興しなくてはいけない時代がありました。その時は理由はいらなかったと思うのです。無くなった文化を取り戻すために祖父は人生を掛けてきました。紅型自体は、なんとか復興しましたが、沖縄では着る人がいない現実があり、先祖の技術を保つ為には、きものの世界に受け入れてもらわないと高い技術が残せないということに辿り着いたのです。
沖縄は現在でも観光立県なので、タペストリ-やコースタ-など観光のお土産品のような紅型も現にあります。そういう道もあったと思いますが、父が敢えてきものの世界を選んだのには、「高いレベルで仕事しないと、技術が落ちてしまう」という想いがあり、そこに挑戦したのだと思います。
その経緯の中で、私は改めてそれを整え、一生産者として紅型の居場所をつくりたいと思い、「再定義し直そう」というのが、今私が考えていることです。
戦後復興の紅型
70年前の戦後復興の資料には色々なものがあります。戦争でモノが全く無くなり、沖縄をはじめ日本中が貧しい状況になった中、嗜好品・高級品である家業の紅型を何とか仕事として継続する為に、祖父は身の回りにあるものをとにかく利用しました。海軍の地図を使って型紙を作り、鉄砲の弾で糊を引く筒を作り、レコ-ド盤でヘラを作ったりして、染色の道具をつくりました。
その当時の買い手は、戦勝国であるアメリカ人しか、お金を持っていませんでしたので、クリスマスカ-ドを作ったりして、なんとか繋いできました。
戦争直後1年目から14代の栄喜はクリスマスカードを製作していましたが、その型紙は、すごくストイックに彫込まれており、祖父の気概が見て取れます。私は仕事に就いて18年目ですが、まだここまでの仕事は出来ません。想像するに、染色の意味がわからないアメリカ人に対しても、絶対妥協しないところが、祖父の一貫した仕事に対する姿勢で、今現在もこの精神は受け継がれ、私たちの骨格になっています。
15代栄順の言葉ですが、「時代に許される範囲の仕事を誠心誠意やる」というのが私どもの姿勢です。その当時はクリスマスカ-ドが許される仕事の精一杯でした。あとは米兵用のネクタイを、軍服にあわせてカ-キ色に染めて作っていました。
時代と共に、着物も染められはじめ、現在人間国宝の平良敏子先生の芭蕉布の生地を使って染めたりしました。先生が人間国宝に指定される前、復興の中でお互いの産地を励ましあおうと、芭蕉布の生地に14代の栄喜が紅型を両面染で染めています。
宮古上布に染めた14代栄喜の作品がありますが、本来、紅型は割りとおおらかな図柄が多い中で、この作品は細かい図柄の両面染めとなっており、栄喜の人柄が出ています。江戸小紋の型紙でも細かいものがあり、それに対抗するわけでもありませんが、「俺も出来るんだ!」という想いでやったものです。残念ながら、今はここまで細かい彫込みは誰も出来ません。
70年前に14代栄喜が染めたものがあります。孫の私が見ても、琉球人の誇りを持って、今でも琉球王朝に仕えているかのようなモノづくりの心が感じられます。100年以上前から使われている古典の図柄ですが、祖父はそういう古典柄の復興を手がけていました。
<
「観光にシフトしなさい」とアドバイスをしていたらしいのです。沖縄は観光立県になっていくので、無理してこういう大物のきものを作るのでなく、小物を作ったりとか県内で販売するモノをつくってみたらどうか、というアドバイスだったそうです。ひとつには、小物であれば琉球100%のテイストであっても、受け容れられるという想いもあったと思います。
しかし、当時15代栄順の中ではそれでは技術が保てないので、いつか絶対きものに挑戦するんだという想いがあり、15代を踏襲し、切盛りするようになってからは、きものの世界にどんどん挑戦していくという流れになったのです。
琉球の紅型らしい原色だった色目から、やわらかい中間色を使うようになったのが15代栄順のやってきた世界です。また、図柄に沖縄の動植物をとりいれるようにもなったのも特徴の一つです。
琉球の時代というのは、外の世界への憧れで図柄を作っていたので、古典柄の柄は殆ど京都・東京・中国などの図柄を取り入れています。
私が見てきた限りでは、沖縄県内の動植物の柄はその時代のものには入っていません。例えば、ハイビスカスや海の世界などは殆どないと思います。こういう沖縄らしいモチ-フが使われるようになったのは、戦後からと言い切っていいと思います。昔の琉球の時代は、殆ど中国や本土にある松竹梅・鶴亀などの図です。
そんな中で訪問着風に作っているものがありますが、これも挑戦だと思っています。本来、紅型は全面に柄があるのが紅型ですが、訪問着風に作るだけではなく、技術を維持するにはどうしたらいいか、と試行錯誤したものです。今、全面に型染めをして、ボカシをするものを進行形でずっと染め続けていますが、実はこのボカシが非常に難しいのです。ゆっくり消えていくようにぼかす為には、例えば10色の色が使われているとすれば、この10色を段階的に薄めていかなければなりません。三段階で薄めていくとすると、30色の色を使って濃度を分けて染めていきます。また、あるところからは顔料から染料に変えていき、きれいなボカシを表現するという、大変難しい仕事です。この技法は、現在工房には20名近くの職人がいますが、まだ2名しか出来ません。職人集団で高い技術で仕事をしながら、その中でより高いレベルの技術を目指していくというのが父の考え方で、20名で仕事をするのは大変ですが、そういう目的を持ち取り組んでいます。このようなやり方は、琉球の時代にはありませんでした。
他にも難しい技法としては、上からは顔料でぼかして、下から染料でぼかしていくというものもあります。染める時は13mの切られていない反物の状態で染めていますので、仕上げてきものにした時に、縫い口の横のボカシがきれいに合わなければなりませんので、非常に難しい技術が要求されます。
15代栄順の挿す中間色は、きものとして着てもらわなければならないということを試行錯誤しながら、しかも紅型らしさも表現しなくてはいけないという葛藤の中で、かなり長い時間をかけて練り上げられてきたものです。しかも中間色であっても顔料の力強さは残っていて、陽射しを浴びてもきれいです。
最近父が染めたものと、70年前のものを比べても、あまり色目は変わっていません。これも紅型の特徴の一つです。沖縄は非常に陽射しが強いので、日光堅牢度が高い顔料を使用して、陽に灼けにくくなっています。このように紅型はずっとつくられてきたので、年数が経ってもほとんど変色はありません。宝石を布に塗ったと言われるくらい顔料には非常に高価な鉱物が沢山使われています。
そういう意味で紅型を太陽の下で見て欲しいのですが、表情が非常に可愛いく見えます。これは絵の具の鉱物性の粒子がわりと粗いので、この反射が変わるとどんどん表情が変わり、陽の下で見るとすごくきれいに見えます。ブル-系は特に表情がよく変わり、すごく変化があってきれいです。
城間びんがたの拘り
城間びんがたには細かい図柄もたくさんあります。ぱっと見の迫力も大切ですが、近くで見た時にも耐えられる、をテーマにしており、隈クマの入れ方などは近くで見ても、柔らかく、ふわっとぼけるように拘っています。
三代連名の作品として、型紙は14代、訪問着風の型合わせは15代、実際の仕事は16代の私が染めたものがありますが、このひとつの作品の中に紅型の三代継承の変遷を閉じ込めたかったという想いがあります。琉球の時代から復興の流れを経て、父栄順がきものに挑戦して、私が染めさせてもらったというものです。
紅型の顔料についてよく質問がありますが、顔料そのものは特に沖縄特有のものはありません。顔料は染料と違って水に溶けませんので、紅型を染める時は必ず2本の筆を持っています。ひとつは色を乗せる為のもので、もうひとつは生地に擦りこむ筆です。
最近は、帯合わせなども考慮し、海をイメージしたブルー系の濃淡の作品が増えてきていますが、紅型は本来多色の染め物で、数十種類の色を使って表現していくことを、300年やっており、得意としているので、色数少なく単色系で染めることは実は難しいのです。例えばブルー系でも10色前後のブルーの色を使って濃淡で染め上げますが、隈クマの入れ方なども工夫して染めなければなりません。
藍型と栄市氏のものづくり
次に藍染めの藍型(エーガタ)の説明です。藍は徳島が蓼藍(タデアイ)で有名ですが、沖縄には琉球藍というものがあり、古くは、紅型は王様・お姫様の衣装、藍型は士(さむらい)の衣装として発達しています。城間家でも紅型・藍型両方を代々やってきています。紅型との違いは浸染(つけぞめ)ということです。紅型は筆で上から塗りますが、藍型は藍の染料の中に生地ごと浸け込んで染めます。最初に型で生地の上に糊を置いてから染料の中にどんと浸けるのが藍型の特長です。
15代栄順は、すぐ行動する人なので、ほとんどの技法をやりつくしてきています。とにかく考えたらすぐ図案を作ってしまうので、型紙も2,000枚近くありますし、考えられる表現は多分全部やっているのではと思います。
逆に私はというと、例えば釣りをするのですが、千円くらいの浮きを買うのにも、インターネットで調べたり、2ヵ月位考えたりして買います。しかし、父親はまず買って、使ってみるというタイプなので、私が時間をかけて考えている間に、父はほとんどの試行錯誤が終わっているという印象です。そういう面白い状況の中でものづくりをさせていただいています。
小さい時から父を見ているので、こう作れば新しく見えるのではないか、というような“ずるさ”みたいな部分が私にはありました。それこそ5年位前までは、まだ「今までに無い、とにかく新しいものを作ろう」という、はっきりしたテーマのようなものを持ってモノづくりに取り組んではいませんでした。
そういう意味で、ある種、父に挑むような気持ちで新しいものを作ろうとやってきたわけですが、昨年「16代を継ごう」と話していた時、自分でも“後がないな”と思い、心を入れ替え、足元をもう一度見つめ直すべきだと、そのとき気づきました。
そして作り上げた最新作が昨年、第62回日本伝統工芸展で日本工芸会新人賞をいただきました。
紅入藍型(ビンイリエーガタ)という技法で「群星浜(むるぶしはま)」という作品ですが、紅型と藍型をひとつの布にドッキングさせたものです。作品の中に紅型があるということと、藍型(エーガタ)で出すブルー濃淡は顔料で彩色するものとは少し違い、独特の味わいがあります。紅型の地染めは引き染めで実施しますが、藍型(エーガタ)は柄彩色の後の地染めは藍甕の中に反物ごと入れて染める浸染めになります。この技法を組み合わせて作りました。
この技法が評価を得て、新人賞に繫がりました。この技法は、私が新しいことを発明したわけではなく、実は100年位前に途絶えてしまった技法だったのです。我が身を振り返り、足元を見つめ直しこういう技法にチャレンジした結果、このような作品を作ることができたと思っています。
私のこれからの方向性としては、もう一度紅型を探求し、魅力を炙り出してアップデートすることにより、紅型をより受け入れてもらうようにすることが、当面の使命だと考えています。小さい頃から思っていることですが、昔のものをそのままやるのはモノマネになってしまうので、魅力は残しながら、現代の方にどうすれば受け入れてもらえるか、と常に考えるようにしています。
藍型はそれを染めるための藍の管理と、反物をそのまま入れて染めることができる大きな甕がなければできません。現在沖縄でこれをできる場所は城間びんがた工房だけになってしまいました。この藍の管理が大変難しくて、私も藍の管理を任されてから7年間は藍がまともに建ってくれませんでした。藍の発酵がうまくいかないということですが、まともに染められない時期が続き、去年初めて染めることができました。琉球藍という植物を使いますが、泡盛と水飴で機嫌を取りながら管理をします。機嫌を取るという表現しか無いのですが、代々親から伝え聞き、教わります。親達は肌感覚で「今日は疲れているから泡盛あげなさい。」とか「今日は働きすぎたから水飴あげなさい。」という表現で教えますが、私としては数値で教えて欲しいとずっと思っていました。例えば水温は何度が良いとか。そういう意味で引き継ぎがうまくいかなかったのか、7年間まともな藍を建てることができませんでした。藍も通常の糸染めの藍と藍型の地染めをする藍では、濃度がまったく違います。藍型の藍は糸染めの5倍位の濃度が必要です。何故かというと染める際に伏糊が乗っている状態で、甕(かめ)に浸けるのですが、8分位で糊が剥がれてしまうので、その前に濃く染めてしまわなければなりません。糸染めで30回位繰り返し染めた濃度の色は、藍型では5回で染め上げます。それだけ濃度の濃い藍でなければ、短時間で染めることはできません。この濃度に藍を建てて管理していくのが、大変難しいのです。先代達はそれを感覚でやってきたわけです。私は昨年うまくいきましたが、たまたまだったのかも知れませんというレベルです。藍濃淡を地染めでやる場合は、まず淡く1回染めた後に、淡く残す部分を糊で伏せてマスキングし、2回目の藍を染めるという段取りで染めていきます。さらに2回目部分までを糊で伏せて3回目を染めていけば、3色濃淡の地色となります。
白地型と染地型
型紙には白地型と染地型があります。白地型は糊を置いたところが、水元で洗い流したあと白い地として残るための型です。逆に染地型は柄部分を糊で伏せるための型で、柄の周りに白い枠が出来ます。あと紅型の白の表現は、基本的には生地の白さで表現します。胡粉という白の顔料もありますが、京友禅のように胡粉を使用することはありません。あくまで生地白で白さの表現をするのが、紅型の特徴です。
後継従事者育成
工房では私が下から6番目で、大ベテランの方から若い方まで幅広い年代の職人がいます。15代の父の職人に対する考え方は、好きな工程にはまれば、ほっておいても仕事をするというもので、新しく入ってくる方がいれば、仕事のやり方を見極めながら、10工程ある紅型の仕事の向き不向きを見定めて、その人に一番合いそうな工程の仕事についてもらうようにしています。どの仕事も考え方によっては、地味で過酷な仕事ではありますが、ハマってしまえば好きで続けていけるところがあります。
紅型は顔料で染めますので、色を定着させる為にまず生地に豆ゴ汁ジルを引きます。ある程度短い時間で染めなければなりません。同時に早く染めることは、乾燥しやすい沖縄では染め始めと終わりで時間をかけすぎると色が変わってしまうため、染めるスピードも大切です。
14代栄喜は手早くという意味の沖縄語「ティーベークチャラク」と良く言っていました。手早く素早くやることが大切で、じっくりやったからといって良い仕事はできないということです。
糊作りも、工房では新入社員の仕事ですが、うどんのコシみたいなもので、うまく炊ける人とそうでない人がいます。もち米と米ぬかを混ぜて蒸すという昔から変わらない単純な作業ですが、それをやる感覚に向いている人とそうでない人が出てきます。
10工程ある仕事は、それぞれチームを組んでやるのですが、なるべく早くツーカーの仲になってやれるように目指します。糊作りも新人達がやる仕事ですが、糊の加減が作品の顔となって出ますので、重要な仕事には変わりないので、感覚が合わない人は変わってもらうこととなります。
栄市氏の想い
最後に「親祖先から受け継いだ手仕事『紅型』を後世に残す」ことが、私の一生をかけて全うする目標であり、この言葉を胸に日々の仕事に向き合っております。沖縄の言葉で「想い」のことを「うむい」と言いますが、今後も城間家が守り続けてきた「ものづくりのうむい」を大切にして、真摯に仕事をしていこうと思います。