「デザインの意義・価値」と「デザイナーの役割」
~ミナ ペルホネン デザイナー皆川 明~

2016年12月8日(木)、「東京スカイツリー®」展望台スタッフの制服デザインを手掛けたことでも有名な、ミナ ペルホネン デザイナー皆川明氏が、早稲田大学「きもの学」で講演されました。どこか和らぎを感じさせる、他にはないデザインに惹きつけられるミナ ペルホネン。デザインだけにとどまらず、素材へのこだわり、ご自身の経験に基づいたモノづくりへの信念についてなど、貴重なお話しを頂きました。

今日は「デザインの意義・価値」と「デザイナーの役割」ということについて、お話しさせていただければと、思っております。とは言いましても、今日お話しさせていただくことは、私が生きてきた中の、モノづくりに従事してきた、たった30年位の中で思ってきたことですので、正しいとも十分だとも思っていませんが、今日この日までの自分の意見ということで、お聞きください。そして違和感や疑問、異論があれば、どうぞ投げかけてください。そして、そこから私も気付きや学びをしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

ミナ ペルホネンとは

自己紹介を兼ねて、まず初期の頃のお話をしますと、私はミナ ペルホネンを立ち上げるまでに、縫製工場と婦人服のオーダーメードのアトリエや、小規模のメーカーに勤めておりました。元々ブランドを立ち上げるつもりではなかったのですが、服作りという、モノを作ってくということに、とても興味がありまして、服という仕事を生業にしようと決めた時から、ずっと一生続けようと思っていました。結果的にミナ ペルホネンを立ち上げるまでの経験が、今の私のモノづくりの原点となっています。

ミナ ペルホネンという皆さんには聞き慣れないかもしれない名前ですが、これはフィンランド語で、ミナというのは「私」、ペルホネンというのが「蝶々」という意味です。
私が19才の時に、フィンランドを旅して、暮らしとデザインについて、とても感銘を受けたので、フィンランド語でブランド名を付けようと、この名前にいたしました。
私の場合はいわゆるファッションブランドというかアパレルには勤めたことがありませんので、どちらかというと工場での仕事を通してファッションを学んできたと言えると思います。ファッションスクールには通いましたが、夜間でしたので、昼間は縫製工場に勤めながら、モノづくりを学んでいきました。その意味でも工場における色々なファッション業界での問題点を直に感じることとなり、後にデザイナーの仕事にとって、モノを作るという現場をとても大切に思わなければいけないという考えに繫がりました。

ブランドを立ち上げるにあたって

そして、いざ自分でブランドを始めようという時に、その経験から三つのことを考えて、それを自分のファッションブランドの軸にしようとしました。一つはファッションのヒエラルキーを見直すこと。これはどの産業でも問題になっていると思いますが、ファッションというのは素材を作り、その生地を商社を通してアパレルメーカーさんが買い、それを小売店が商品としてお客様にお渡しするということですが、その際に発注者の権限がとても強く、製造現場が疲弊しているということがあります。
二つめは素材から作るということです。これもとても大事なことで、今の私達のモノづくりの軸となっています。クリエイションの喜びということは勿論のことですが、自分達がモノづくりをゼロから始めることによって、そこに生まれるプロセスに対する責任と、自分達の理念を全うしようということが、想いとしてあります。
三つめとして、自分にとって違和感のある環境を見直すことです。私はいわゆるアパレルメーカーに勤めた経験が無かったので、ファッション企業の構造や慣習に対する疑問への好奇心があり、自分のブランドを通して確かめてみたいということがありました。ファッションに対して否定的というのではなく、疑問に対して違うアプローチをして、それが成功するのかという好奇心から、そのように考えました。
疑問の中で興味深かったのは、なぜファッションはワンシーズンで価値が著しく下がるのか、ということでした。正確にはワンシーズンすら持たずに、その3分の2が過ぎた頃には、価格が下がっていくということを、皆様も日常の実体験として生活の中で知っていらっしゃると思いますが、なぜ、このような構造でビジネスなりモノづくりの流れなりが出来ていて、それが継続しているのかということがとても疑問でした。そこに費やす材料や労働の価値を、なぜそんなに短期間に落とせるのかと。どう考えてもシステムがうまくいっていないと思ったわけです。

値段が下がるということは、「モノの価値」が下がるということですが、同時にそこに含まれる「労働の価値」も下げてしまうということになるわけです。そして私達にとって大事なことは、そこに込められた「創造性の価値」も下がってしまうということです。そのことが成立するならば、そもそもの売り値は値下がり分を加味しているということで、そうでなければ継続しないはずです。それはいずれ売り値に対しての信用を無くし、適正を欠いていくという結果になると思いました。ファッションブランドが他の産業やモノづくりに比べ、長く継続していない企業が多いのかということも、この疑問に対しての答えになるのではないかとも考えました。
このままでは、夢を売るという仕事ではなくて、産業にとってもお客様にとっても失望を売るということになってしまうという不安もありまして、そこに気付いたことを、ブランドを立ち上げる上でとても大事にしました。

素材から作るということですが、私は学校ではテキスタイルの勉強をしておりませんので、工場で見習いとして手伝いながら、技術や工法、コストなどについて覚えていきました。図案の描き方などはほとんど知りませんでしたし、素材にも詳しくありませんでしたので、自分のブランドを作りながら学んでいくという方法を取りました。
初めて作った素材は、今でもお付き合いがある八王子の小さな家内制工場で作りました。その時初めて図案を描くことが好きだと気付き、絵を描くという喜びと、モノを創造していくという喜びをとても強く感じました。素材を作る時に大事なことは、そのモノに想像と喜びを込めると言うことだと思います。もちろんファッションの場合は機能性、暑さを和らげ寒さを防ぐという基本的なことも大切ですが、身に着けるという点で私達のアイデンティティをあらわすということにもなりますし、その表現というものが、自分の日々の様子や価値観と、共感し合っているという喜びを得る一つの道具でもあると思いましたので、そのことをまず大切にしました。
ブランドを始める時、日常の特別な服を作ろうと思いました。それは何か特別な服ではなく、毎日着ていく中で、その喜びを毎回享受できると言いますか、着ていく中で、やがて愛着に変わっていくということを表現できるような、日常的な服を作ろうと考えました。その気持ちは今21年目となりますが、同じコンセプトで作り続けています。そういう意味では、日常の服だからこそ、着る人の想像や記憶と共感できるような図案を描きたかったし、描く時にストーリーを持って、ただ花の絵や動物の絵や幾何学の色が美しい、形が美しいというだけではなく、そこにストーリーと創造性を含んでいるということを、自分達のテキスタイルにしていきたいと考えました。
初めて作った素材の名前は「hoshi*hana(星花)」という名前でしたけれども、それは刺繍で作られておりまして、名前の通り星のような花のようなモチーフが描かれています。空に星がまたたいているのは、野原の中に花が咲いているという景色にも似ているなと思い、星は空に咲く花であるということを想像して、まずそのストーリーを作り、刺繍の柄を描いていきました。

それ以降現在では2000種類以上のテキスタイルがありますが、全てにおいて愛称が付いています。それは同時に私やモノ作りに関わる人も着る人も、その服に愛着を持つことに繫がるサインとなりました。私達は電話で工場さんと話をする時も、常に生地の愛称で呼んでいます。多くの場合は品番という番号で呼ぶケースが多いのですが、私達は愛称で呼ぶことでお互いがすぐに映像としてその素材が目に浮かんだり、番号で呼ぶよりその思いがお互いに持ち合えるということがありますので、仕事をやっていく上でも作る現場にとっても大事なことだと思いました。

素材を無駄にしない

このように素材から作るということで、一貫した理念や創造性を貫くことがとても自然なことになりました。素材の扱いで大切なことは、出来るだけ無駄にしない、ということです。その思いに至ったのは、工場で色々と学ばせていただいた時に、色々な方々が情熱を込めて素材を作って下さっているということです。そこで生まれた材料が洋服に使われる一部の部分だけが生かされて、あとは捨てられてしまうということが、縫製工場では良く目につく光景なのですが、素材の中の小さなスペースにも工場で働く人の労働が入っているということを、工場で作りながら学んでおりましたので、できるだけ材料を無駄にしないということは大事なことだと思いました。
素材を無駄にしない為に生まれたミニバッグは、ブランドを立ち上げた当初からあるもので、裁断物の不規則に残った端裂や、反物の余ってしまったものからバッグを作り、今までにたくさんの種類を作っておりますので、今では私達のアイコン的な存在にもなっています。
他にも端裂から生まれたデザインは増えてきて、ピースバッグというパッチワークをしたバッグや、くるみボタンなどすごく小さなパーツでもできるものも作り続けています。洋服のパーツというのは、とても様々な布の形をしていると思いますが、その残りもある程度の面積がありますので、それを大事に使うことで工場の人の労働や使われている材料が、無駄に使われることのないようにして結果的には一つの材料の価値を適正なものにしていく方法にも繫がっていきます。

このようなことに気付いた原点というのは、夜間学生時代に縫製工場に勤めていたと申し上げましたが、そこで裁断して余った布を捨てていく光景を見ていて、もったいないとか色々なモノが作れそうだなと思っていたこともありますし、その後独立した時には、生活のために魚市場で働く数年間がございましたが、そこに来る料理屋のご主人に、魚のアラを使う料理の大切なことを学びました。こういう場所からもおいしい料理が作れるんだよということももちろんですが、ここの材料を無駄にしないことが、刺身やメインとなる部位を使う料理の値段を適正にすることができ、安価にお客様に食べてもらえるという話を聞いて、材料の歩留りを最大限に上げていくことで、結果的にはお客様に提供する価値を値段として下げることが出来るということや、同時に作った人の労力を無駄にしないことに繫がるということを感じました。
この二つの経験が端裂を生かしていくことにつながり、その結果余ったものからデザインが生まれ、お客様に喜んでいただき、工場に適正な工賃を支払い、私達も余りから利益を得ることができるという循環が出来ました。工場で裁断された端裂は全て私達のアトリエへ送られてきてバッグなどの商品に生まれ変わり、更に余ったものは袋詰めにして、お客様の手芸用として扱っていただき、その収益をメセナとして社会貢献に使ったりもしていますので、端裂がゴミ箱に入ってしまうか、新しいデザインや社会への事業活動に使うかでは、ずいぶん大きな差が出るなと感じています。

ファッションのヒエラルキー

洋服の店では、新しい服がハンガーラックに掛かっていて、まさに生まれたての様子でお店に並んでいますが、そこに向かうまでは、糸を作るところから素材を作り、染色や刺繍などの二次的な加工を経て、数か月の時間を要してようやくお店に並んでいます。このように色々な労働があるということで、私はファッション産業で一番疑問であったのは、モノづくりの現場におけるヒエラルキーのことでした。
利益の構造という点においても不平等な現場を見ることが多く、それによって製造現場は減っていき、結局はどんなに良いアイデアが出来てもモノづくりが続いていかないという、循環の崩壊ともいうべき原因になっているように思います。そういう意味では、互いに仕事を尊重して、切磋琢磨して互いの継続を目標にするということは、とても大切なことだと思いました。お金を支払う者が偉いのではなく、互いにしてもらう、させてもらうという姿勢で、信頼の関係に立つということが重要なことだと思います。
利益分配がアンバランスでは、産業の継続をさまたげて循環にひずみが出てしまうというのは、現実に起こっていることですので、実感として私達が抱えている問題でもあります。互いがフラットな関係になっているということは、何よりも信頼を価値に据えていきますので、仕事に対しては妥協が無くなり、仕事の評価を適正に出来るということが、結果的に工賃という働く人の労働の糧を適正に評価することが出来ます。その結果は互いの改善の品質にも繫がっていきますし、それによって産業が循環しやすくなるという構造になっていきます。逆に互いがなるべく安く仕事をさせようという考えは労働のバランスを崩してしまい、利益分配がとてもアンバランスな状態になって、結果的には産業を循環させるということにブレーキをかけることになります。そしてそこで生まれたモノも安価な材料、安価な労働から生み出されたモノですので、必然的に安価となり、労働があまり報われないというものが大量に世の中に出て行き、それも継続を危ぶむ要因になっていくと思います。
大切なことは互いの努力と気付きによって、合理的な労働とアイデアの付加価値を高めることで、相対的に売り値に対してコストが下がることが望ましいと思います。一つが先ほどの端裂の有効利用や、流通の簡素化や継続的な生産だと思います。
私達のデザインする生地は、とてもゆっくりしか出来ないものが多いので、生産性がある意味低く、一日に数メートルしか織れないものもあるのですが、自分達が目指していることは、長期間に渡ってモノを作ることによる「大量生産」です。大量生産という言葉は、多くの場合消費社会に対して安価に大量に速く出すということで、あまり良いイメージが浮かばないかもしれませんが、工場で様々な工夫をして作った素材は一遍にはたくさん出来ませんが、長い期間を有効に使って作っていこうと思っていますので、短期的な大量生産とは真逆の発想ですけど、長い時間をかけて最終的には大量に作れるモノを目指していければ、工場にとっても社会にとっても、継続的に良いモノが生まれていくという環境が、互いの喜びになるだろうと考えています。

デザインを作る時には、素材からゼロから作っていくということと、全ての材料を出来るだけ使い無駄を出さないということ、関係性をフラットに持ち、仕事をし合う者すべてが、お互いに信頼を持っていくという、「ゼロとオールとフラット」ということを頭の中に置きながら、自分達の思考の軸にすると、新しい方法論が見えてくるような気がしています。

ファッションとは社会の景色と自分の鏡

ファッションは産業としてどのように進むべきなのかということで、普段私が専業としているファッションの話をしていますが、今日はもちろん「きもの」というキーワードがある中で、きものも当然衣服という流れの中にありますので、きものという背景とも繫がってくるのではないかと思います。
ファッションというのは「社会の景色」でもあり、「自分の鏡」でもあると思います。皆さんが着ている洋服の姿が、社会の暮らしの中に映ることは、社会がどのように変化しているかということを、見せてくれる一つの景色でもありますし、そして服を選ぶ、デザインを選ぶということは、自分の内面や自意識と繫がりあっていることですので、自分の鏡でもあると考えております。
社会のモノの価値の考えや方法論の変化によって、ファッションの表現は変わって来ました。現在のファストファッションにおいては、物流の発達により製造コストの安価な地域で大量に作ることが可能となり、同時に情報のグローバル化により世界中でほぼ同質なデザインが、ほぼ同質なマーケティングによって広められる社会の状況によって、ファストファッションというような業態が生まれたのではと思います。ラグジュアリーブランドと呼ばれる、ヨーロッパを中心とした高級なブランドにおいてもグループ化が進み、資本の合理性の下でマーケティングやPRが考えられていると思います。
このことはファッションだけではなくて、自動車産業や時計の分野にも言えるかも知れません。情報の共有が進み、以前よりはるかに同時性と同一性が進んだ結果だと思います。私達は社会の状況と自分のアイデンティティを、どのように繋いでいくのでしょう。このようなことは、これから自分達が進んでいくデザインという仕事にとって、考えなければならない大きな課題だと思っています。そのことを考えていくことで、その先が見えてくると思います。答えは一つではなくて、そこには今後多様性ということが見えてくると思います。そこへの思考を止めないで、それぞれのブランドがデザインの本質である社会の循環に、幸福感を含ませるということに集中して進んで行くということが、新たな社会の構造を作っていくのではないかなと思っております。
私自身はファッションが、より個人のアイデンティティを表現する役割を担えるように、仕事をしていきたいと考えますが、それ以外にデザインの範囲では、様々な理念を軸に多様性を持って進んでいくということは大切なことだと思います。ファッションが短いサイクルで消費をするということになれば、作るまでのプロセスの労働やその生地というものが、あまり報われないままに物質としての命を終わってしまうということになります。そういうことをできるだけ避けるには、どのように作っていけば良いかということを日々考えています。
私達はよく消費という言葉を使いますが、モノを作るということで私が一番実感している喜びのひとつに、自分の思考から物質を繋ぎ合わせて新しいモノが生まれるということがあります。思考という物質でないものが最終的に物質になるということは不思議ですし、それが自分の持っている命よりもはるかに長いものとして、存在できるということもまた不思議です。鼓動や脈打つ私達のような生命と違って、木や鉄や様々な素材から生まれた物質というものは自分達の命を超えても長く、社会の中で存在できるということにおいては安易に消費という言葉を使うのではなくて、思考や労働から生まれた周りを人の命が回っていく位の考え方で、モノと付き合っていくということを大事にしたいなと思います。

デザインの意義と価値

次にデザインの意義・価値についてお話ししたいと思います。デザインという概念がとても広くて、単に物質ではなくて、空間やサービスや思考そのものまで、デザインと呼ぶ社会だと思いますので、ここでは主に物質的なデザインについてお話します。
デザインと暮らしということは、思考という非物質と物質または空間を繋いで新たなモノを創造するデザインと、その創造によって新たな思考を生むという暮らしの循環だと思います。つまりデザインということを通して思考から物質になって、その物質を暮らしの中で使いながら新たな思考を生み、その思考がまた物質化していくという循環だと考えました。そのデザインは思考や創造ということだったり、芸術と技術・工芸ということかも知れません。物質や空間と時間や記憶というものによって、創造されていると考えます。デザインの意義・価値は暮らしの中で、利便性の価値を超えて感情的な喜びに向かっているということは、博物館や美術館に行けば実際的に感じることが多いのですが、昔から人間の営みにおいて道具というものは単なる利便性だけではなく、感情的な喜びを求めているということは、私達が日常的に感じていることだと思います。それらは創造された時点から、暮らしにおける時の経過によって物質的な価値や時間的な価値が内在されていきます。そのことは暮らしにおいてとても大事なことだと思います。それは経年変化という言葉で語られることがありますが、天然のものや時間を経て変化していくものを、私達は美しいと感じる心があったりします。その結果そのものへの愛着という感情を持って、モノと生活していくということを実感しています。
デザインが暮らしの中で、愛着という価値を生むということは、人にとって最大の喜びかも知れません。そしてそのようなものの意義・価値の根源は思考や創造、芸や工の質によって決まってきます。つまり創造性やそこに向かう為の技術や芸術性ということで、物質的な鉄や木というそのものの材料が人の愛着の高みに繫がっていったり、感情的な喜びに繫がっていくと思います。
もう一方でデザインの意義・価値は創造物だけではなくて、それが生まれるに至るまでの過程における思考や時間という関わり方においても存在しています。それはそこに生まれる創造の喜びや、その対価で表すことができます。デザイナーの役割というのは、モノの美しさや道具の利便性や感情的な愛着や、そのものの存在意義を生み出すというだけではありません。それを作るプロセスにおいての視点でも、クリエイティブな表現をしていくということが大切だと考えています。

そういう意味では、思考とモノ、コトを融合させて、デザインという創造物へ向かう道筋において、生まれてくる創造物の意義、価値と、過程で生まれる精神的意義、価値に配慮して、計画し、具体化する人がデザイナーと言えると思います。つまり、モノ、コトを完成させる仕事だけではなくて、そのプロセスの価値までも創造する、ということだと思います。

クリエーションの価値

私はひとつのクリエーションの価値、というものをもし計算するとしたら、ある計算式が成り立つのではないかと思います。先ほどから申している、思考や想像の質、そして物質や空間の質、そして芸術性や技術の質、そしてそれがどのくらいの時間、暮らしの中、社会の中に存在するかというそれぞれを掛け合わせたものが、クリエーションの価値ではないでしょうか。
つまり、思考や想像の質が高いということがそのデザイナーや創造する集団の中での創造性が高い、ということですが、それは反対の意味でいうと、なにかすでに世の中に存在しているものをできるだけ簡単な方法でコピーしよう、というのは質が低いということにあたります。
物質や空間の質という点においては、目的に対して適正な材料である、ということは物質や空間の質が高いといえます。たとえば安価にするため、大量につくるために、その素材ではなく代替品のようなものを使ってそのように見せよう、ということは、質が低い、と言えるかもしれません。
芸術や技術については、美意識や技術の熟練度、ということが挙げられます。そしてそこから生まれたものが、どのくらい世の中に長く存在していくか、ということが、最終的にはクリエーションの価値であり、結果的にそれが世の中で流通する上で売値という相対的な価値として値段がつくということになるのかと思います。
ですから単純に一つの売値が数字として高いか安いかではなくて、存在時間を含めて、長く付き合うものであればこの値段、そしてその背景に技術や想いというものがしっかりあれば、きっとその対価が高いとしても納得できる。そして長い時間の中ではよりモノが輝く時間を持てるのではないかと思っています。

例えとして考えてみたことを申し上げます。いつも必要なモノがあります。1年間しかもたないモノと、10年間もつモノの値段の比が10倍でした。1年間しかもたないモノは、10年間毎年買い替えました。10年間の支出はどちらも10万円でした。 10年間という単位でモノを見たとき、同じ金額を支出して1年しかもたないモノを10回買う、10年間もつモノを1回買う。これは一律のことではないので、たとえ話ですが、仮にそのモノの価値が価格に比例しているならば、1年しかもたないモノは10年間もつモノの価値の10分の1ですので、10分の1の価値を十年間持つことになります。そして、10年もつモノは1年もつモノの10倍の価値ですので、10年経った時、10倍の価値になっている。ということになります。
そして同様にそのモノの工賃、つまりモノを作る時のコストで考えます。1年しかもたないモノを作る時の時間は10年間もつモノの10分の1でした。その際の工賃も10分の1でした。同じ期間にできたモノの工賃はどちらも同じになりますが、そのモノを作る時の満足が工賃に比例している場合、どちらのモノをつくるときのほうが満足できるでしょう。
モノを作る満足、というのは何か作るうえでとても大切なことです。私は、日常の多くの部分をモノを作るという仕事に費やしているので、人生の中でもその割合はずいぶんと大きいものです。そのときに自分の創造性や自分の技術が生かされていく、そして成長していく、ということは、大きな喜びになります。長い時間をしっかりかけて、自分の創造性や技術を生かして物を作っていく、それは単純に作れるモノよりも、10倍大変で、10倍のコストがかかってしまう。しかし結果的に、モノの持ち時間ということを考えれば、大きな時間を費やしてモノを生み出す方が、モノの持ち時間は結果的にはとても長くなりますので価値は大きいと思います。それは時折、私たちがアンティークショップで古いものと出会って、その価値を知ったときにまさに実証されていると思うのです。本当によいものは、何十年も経ち、当時の価値を上回る存在になっている、ということは私たちがよく目にする光景だと思います。

私達は基本的にすべて手描き、または手でちぎり絵をしたりするなど、手で描く方法をとっています。細部において、手の不均一さや必然的なゆがみ、手が持っている偶然性ということを含みながら表情が生まれます。機械が手で描いた表情を読み取ってモノづくりをすることは可能で、人の眼が自然と、和らぎや偶然性への喜び、驚きを感じてもらえます。

私たちは刺繍という技法を比較的多く使い、ひと針ひと針機械で刺していきますけれども、大変長い時間がかかります。工場は1日2交代制で1日16時間動きますが、とても長いものだと一週間刺繍を刺し続けて、何万ものステッチを施してようやくひとつの反物ができあがります。ベルベットのジャカードといわれる織りも、一日当たり3メートルから5メートルしかできません。洋服1着2メートルとすると、大体1日1着から2着分作れるかどうか、というゆっくりとしたペースで1台の機械が織っていきます。
私たちは主に日本の産地の工場でつくっておりますが、それは全国にあります。ファッションの主要都市の中ではイタリアと並んで日本もずいぶん残っている方だと思います。応用力という点でも進んでいて、私たちが日本でモノをつくる機会を得ている、日本のブランドである、ということは、とてもありがたいことだと感じる日々です。
モノが売れない理由を私たちの業界の中では、旅行や携帯電話など、いわゆるコトに支出が移ったからだという方もとても多いです。ただ、本当にそうだろうか、とも思います。ファッションでは、いわゆるファストファッションが多くの部分を占めていますし、そのシステムは持たないけれども、安価な労働コストの生産国で短サイクルで安価な製品を作るメーカーもたくさんあります。セールも季節の3分の2ほど過ぎたあたりから始まります。アウトレットも乱立しています。そのうえでモノが売れないと言っている状況です。
モノを買うということはモノへの賛成票だと思いますので、この状況が賛成されていないということなのかな、とも感じています。安価ということがひとつの価値であることは否定しません。安価でデザインがしっかり思考されて、品質が良くて、労働コストが適正であればそれは理想的なことだと思います。安価という価値のために他の価値を見ない場合、デザインの価値が賛成票に届かない、ということなのではないでしょうか。
安いということは数値でしか判断されず、その価値と相対的に見てどうなのか、ということが大切です。モノは、人より長い命を持てる可能性があります。自分たちより長い命を生み出す力、それは人の叡智の素晴らしさです。アイディアや思考が素晴らしくても、理念がないと安易な判断がプロセスに入ってきてしまい、価値の寿命は短くなってしまいます。
これからのデザインやモノづくりはどのような態度を求めているか、について考えていかなければなりません。それは作り手と使い手の相互価値を生み出すものであり、その価値が持続性を保つものだと思います。作り手の満足だけでなく、使い手の満足も見ていく、それを一つの価値とする、ということです。回転の速い消費がなければ活発な経済活動がない、という強迫観念を捨てなければ無理なことです

きものを着て過ごす時間

今日、ほとんど「きもの」というワードが出てこない講義となり、皆さまも不思議に思っているかもしれません。新しいきもの、というのはずっと模索されていますが、もしかすると、新しい物質的なスタイルということではなくて、きものを着て過ごす時間、暮らしの中のペースを、きものが主流であった頃の時間を再認識する、という場をつくるということが、きものが日常性を取り戻すことにつながるのではないかと感じています。つまり、きものという物自体が魅力を失ったのでは全くなくて、それを着て過ごすという時間そのものが少なくなり、心地よい時間のペースが少なくなっている、ということがあるのかもしれません。着物を着た時に楽しめるスペースや時間の在り方が、今後とても大事なのかな、と思っております。そして、そのような時間がゆっくり流れていく、という社会や時代はそれほど遠くないのではないかとも感じています。
それは現に私たちが社会や生活の流れていくスピードに、やや違和感を覚えることがだんだん多くなって来ていることから、データや予言的ではなく私自身が感じていることです。ただ単にモノの情報の速さがモノの価値だけではなくて、適正なスピードを私たちが考えていく社会に変わっていくのかなと思います。
私が今日のテーマでお話ししたことは、デザインの意義・価値とデザイナーの役割ということですが、私が19歳から縫製工場で働き始めての30年くらいの短い間でのモノづくりの考え方ですので、不十分なことも多かったのかなと思います。時間がありますので、質問があればお願いいたします。

質疑応答

学生A:今まで皆川さんのつくる服のことはあまり知らなくて、ちょうちょ柄の可愛いブランドかなと思っていたのですが、お芝居や美術館を見て可愛いだけではなく何かがあると感じるようになりました。私は建築を学んでいるのですが、モノづくりという視点で芝居や建築など別の分野についてのお考えはいかがでしょうか?

皆川:ファッションから私たちのモノづくりは始まったのですが、建築やインテリア、その他のアートなど別のデザインとの領域や芸術の分野でも繋がりをもって活動しています。建築やインテリア舞台衣装など様々なクリエーションの方々と繫がりながら、テキスタイルという分野で一緒にモノづくりをしていくことが社会にとって大事だと思いました。
同じジャンルの中にもビジネスの中で競争という言葉が使われます。競合とも言われますが、競争・競合という一つのパイ(制約)の中で、その取り分を争うことになるのですけれども、領域を外して様々な方々とモノづくりをしたり、同じ領域の方と競合をすることで、制約のパイというのはそもそも存在しなくて、新たな価値を作っていくことが目的になります。そうなると競争の概念が消えていき、新しい価値が生まれやすいということと、無理な労働もなくなっていくということで、新しい社会にとても重要なことかなと思います。
そして建築の方がカーテンやラグなどのテキスタイルにまつわるモノを作っていくことは、全体のプランの中で難しいので、私達が建築の方の意向に沿いながら作っていくことだと思います。また、その逆もあって、私たちはファッション関係ですから、店を作っていく中で、その理念を建築の方に伝えていくことが新しい価値を作っていくことだと思っています。インテリアの仕事が増えていく中で気づいたことは、今までは春夏秋冬の大きなサイクルがありましたので、工場には閑散期、繁忙期といった波があったんですね。それがインテリアのジャンルに注力したことで、閑散期に工場に発注ができて工場の製造がフラットになる状態が出来ました。それが本日話してきました、使い手が作る製造側のメリットだと思います。そのことが今後続けば安定した製造ができますし、創造する側も互いの領域を外してお互いに良いモノを作っていく関係ができると思っています。

学生B:お話の中でなるべくモノを捨てずに使うとありましたが、今までも色々な企業やブランドも同じことを掲げていましたが、多くは資源の有効活用や地球環境に優しくといった表現でした。しかし、皆川さんが労働力という視点を持たれたのはいつからですか?

皆川:元々私が縫製工場やオーダーメイドの店で働いていたことが、今の自分のブランドに対する重要な体験だったと思います。自分たちが働いている中で、工場の方々が働いている景色が自分でも浮かび、その拘りが布という反物の中に全て入っているのです。
余った10㎝四方の生地にも何時間もの時間や、不良がでた場合に直す職人の仕事があります。そのことを目の当たりにして仕事をしていましたので、ただゴミ箱に捨てしまうと、材料費はもちろんのこと、そこに費やした労働が時間として入っていることを実感できる体験でした。そこには労働コストも入っているわけで、モノを捨てるとそこにある労働コストも捨てるわけです。私たちが色々な材料を開発する中で、単純に完成品を作るためだけの労働力ではなく、トライアルするための労働力も存在しているんです。そこには人の時間だけでなく、ある種の情熱的な労働が感じられるので、それを捨ててしまうのは本当にもったいない、申し訳ないと思います。
それは、昔、親に「ご飯粒を残すと農家の人に怒られるよ」と言ったことと同じだと思います。米粒の中に農家の方の仕事が入っている意味と同じかなと思いますけど、私たちもアイデアを一つ考えるとそこにはたくさんの労働があって、その労働が良い品質や良い社会の還元に向かっていかないと、とても無駄なことになってしまうなと思いますし、自分が日々一日の大半をモノ作りに費やしているのと同じで、自分たちのアイデアが工場の方々の人生を借りるという結果になるんですね。使い手の視点もありますが、作り手の視点を日常的に見ていることがそういう考え方になったと思います。リサイクルが環境に良いという事実もありますけど、リサイクルまでもいかず、モノが長く使われることが労働として捉えられることは意味があることだと思います。

学生C:ファッションには疎くていつもファストファッションの店で買い物をしているのですが、作り手側の視点として「はやり」をどう思われますか?

皆川:作り手は多様な存在がありますが、私たちは規模的に大きくなく小さなグループに入ると思います。その中で「はやり」と呼ばれる大きな現象の流行に乗る必然性はなく、例えると日本で1年間で消費される衣料の点数がおよそ40億点に近いとすると、私たちが作るのはその内数万点にすぎないのです。すると何十万人に一人が共感していただくと成立するわけで、そうなったときには「はやり」ではなく、自分たちのやりたいこと、クリエーション、創造性を大事にして、それを世の中に発信して共感していただく範囲で十分継続できます。それを怠って「はやり」に向かっていくと自分たちが存続できないんですね。ちょうど砂漠のオアシスで水を飲もうと思っても、自分たち小動物はたとえば象のような大きな動物たちが占めてしまっているところには入っていけない。それよりも自分たちが見つけた小さな泉を保って、常に維持していくことが自分たちの規模にあっていると思います。自動車と違って小さなメーカーが何千、何万もあることが、それぞれの人の主観に共感できる産業だと思います。ファッションは良く流行で語られますが、実はもっと多様的で規模も様々であるほうが健全に発展していく産業だと思います。一方でファストファッションといわれるメーカーは大量に作って流行を作っていく存在だと思います。
今安価な国で製造することで安価なモノを製造していますが、いずれ需要が上がることでコストがあがり、賃金も上がるということを想定しますと均一コスト、均一賃金になると思われ、今は安価なモノは一時的に成立していると考えます
例えば以前は中国で生産していたモノが、今は別の国に移っており、将来は移り切った時に均一になるのかなと思います。労働も安価ばかりに移って、自分たちが喜びを感じないままに享受していくことはいいのかな?と思います。日本で一時的に得られる金額が1,000円とすると、当然そこには利益があって、1,000円以下の商品があるとすると作るための時間はもっと短いと思います。ファストファッションの商品を見て、1時間でこれが作れるかな?と考えたときに、このままだと良くない流れが社会に行くのじゃないかと思います。地球温暖化と同じで、様々な産業が労働の価値について考えるときが来るのかなとも考えます。

学生D:私も北欧の暮らしとかデザインに魅了された一人なのですが、19歳の時に訪れたフィンランドで、今に与えた影響や価値観への影響を教えていただけますか?

皆川:フィンランドの暮らしを見るにあたって、暮らしの喜びに経済が向かっているなと感じました。ちょうどバブル期が絶頂から陰りが見え始め、日本が経済的な豊かさをモノで表現しようとしていた景色がとても目についた頃でした。モノ自体ではなく、暮らし自体が豊かさを表しているなと感じました。フィンランドでいうとアルテックやスェーデンのマリメッコがそうなんですが、暮らしに豊かさをもたらしたいという思想を感じたので、自分も日常の特別な服を作りたいという思いにつながりました。日本は階級社会ではなく、自分で生産していきたいな、それも国内で生産していきたいと思いました。
今日はゼロとオールとフラットということを述べましたが、ゼロから創造を始めて、そこから生まれたモノを100%使い切って、作る関係を平坦なフラットにして尊敬しあう関係にしたいという意味では、「ゼロ」「オール」「フラット」がこれからのモノ作りや使い手の関係としたいと思います。

ありがとうございました。